プロフィール(私がセラピストになるまで)

私がセラピストになるまで

幼い頃から、病気がちだったわたしは

幼稚園の頃、長い間入院をしたことがあります。
その期間は、なんと、9か月間でした。

そのときは、ちょうど幼稚園の入園が決まっていて、
準備もすべてが終わっていた頃のことでした。

子供の時間単位で考えれば、長~い入院生活のせいで、
幼稚園にも通うことができなかったのです。

両親は、仕事を終えてから病院に来てくれました。

でも、・・・・・・・・、
二人とも、いつも、疲れ切った顔をしていました。

そのとき、わたしは、まだ4歳、

消灯後の、ひとりぼっちが、とっても寂しくて、
病室では、よく暴れました。

父と母も、看護師さんたちには気をつかっていたとおもいます。

わたしは退院したときは、やっとの思いで、寂しかった時間から解放され、
とても、うれしかったのですが、自宅に帰ると、

畳のうえに座らされて父から言われた言葉は。。。

「美佐子、おかえり」 ではなく、

「お前は長い入院をして今までみんなに迷惑を掛けたのだから、
これからは人に役立つようなことをしろ」 というものでした。

いま、おもえば、父は、当たり前のことを言ったのかもしれません。

わたしを愛していなかった訳ではなかったのだ、

と、おもいます。

大人になった、いまは父のその気持ちも理解できますし、

もう解決し乗り越えられたからこそこのように言葉にできるのですが。。

若干5歳だった子どものわたしには、衝撃が走るような言葉だったのです。

「なんで帰っててきたことを喜んでくれないんやろう」

そのためか、わたしは重荷を、こころに抱え込んでしまっていました。

病気がちな子供の頃➀

わたしはずっと当たり前のことが当たり前にできない子どもだったように思います。

今のように、発達障害なんていう言葉なんかない時代でした。

グレーゾーンなので、日常生活は普通には出来ます。

ですが、一度にたくさんの出来事を処理しないといけなくなると
途端に大混乱してしまうのです。

今でもそうです

物事もじっくり一つ一つを片づけたいので、やることが遅く。

整理して優先順位をつけるのがニガテなんですね。

そんな出来ない自分を無意識にずっと責めていました。

「私は役立たず」

「役に立つことをしなければならないのに、こんなんじゃだめだ」
と。

そんな毎日に違和感は感じていましたが
当時はかろうじて
アダルトチルドレンという言葉が出回っているくらいで、
自分のことを知りたくて、それらのことが書かれている本を一生懸命読んで、
安心するようにしていたのです。

無意識に 「私は役立たず」と思い込み
発達障害グレーで普通のことが当たりまえのスピードでできない子供

この1文で、私の幼少期が闇に包まれていたことは、ピンと来ていただけるかと思います。

病気がちな子供の頃②

病気がちな子供の頃。
これだけではありません。
背骨がぐにゃっと曲がって神経を圧迫する慢性の病気
「突発性脊髄側弯症」で疲れやすく
中学生の時に
子供は授かる可能性は低い
50歳くらいまでしか生きられない と言われていました。
今は医学が進歩してそんなこと言うお医者さまはいらっしゃらないと思いますが
当時、昭和50年代です。

将来について夢を抱く時期に

私は50歳までに死ぬ、

50歳までに死ぬとわかっている私と結婚したい人なんかいないだろう

無意識に、私は役立たずだと、心に思いながら生きていました。

もともと人の気持ちに敏感なところがありましたが、役に立ちたい、という気持ちからか、

人の目を気にするあまり、いつでも疲れていました。

疲労・ストレスが原因で慢性疲労症候群になってしまったこともあります。

結婚してからは、慣れない子育てで、相談する人もいなかったので、

産後鬱を経験しています。

 

大手エステティックサロンでエステティシャンの日々

わたしは、大手エステサロンで働いていました。

服飾デザイナーから思い切って転身した憧れの職場は

当時全国で売り上げ1位といわれたお店。

活気がある反面、とても忙しく

施術者不足で一日に10人のリンパマッサージ、脱毛5時間ぶっ通し、

フェイシャル10人ぶっ通しなどという、過酷な日常だったのです。

施術者の健康も危ぶまれるような危険な状態でした。
ですが、待っていたのは活気がある反面、

完全にブラック企業ですよね。

脊髄側弯症の私は、
同じ姿勢を長時間取ることで体に大変な負担がかかってしまうため
毎日整骨院に行き、背中にテーピングをして出勤していました。
ハードだけど<お客様の役に立っている!!>という

充足感を感じながらの仕事。.

やはり長くは続かず、ついに体調を崩してしまいます。

休業中の身も心も癒されたアロマテラピーとの出会い。

私はサロンの仕事をやめて、少し休憩することにしました。

そのとき出会ったのがアロマテラピーです。
当時1990年代
日本ではあまり知られていなくて、イギリスから伝わったばかりでした。
癒しに興味がある方たちの中で、
話題になっていたものを流行り好きの友人が教えてくれたのです。
あまり情報もなく<マニアックな趣味><一部の流行好きの人たちの趣味>
と、紹介されていましたが、いい香りに・・・
本当に身も心も癒されて、どんどんはまっていきました。
今でこそ精油は雑貨屋さんやアロマショップで簡単に手に入りますが、

当時、関西ではアロマショップが唯一、一軒あるだけでした。
そこに私は、足しげく通っていたのです。
そして、ワンディレッスンなどに参加して、アロマのことを知れば知るほどに、
本格的に資格を取りたくなっていました。

ですがその後すぐ、プライベートで、
結婚することになってしまい、資格を取るところまでは至らなかったのです。

結婚後は個人的に、
自宅でお友達にトリートメントする程度で、楽しみました。
そして、妊娠。
私は30歳を過ぎていましたが、
どうしても欲しかった子供を授かることができました。
医師からは難しいであろうと言われていた出産だったのです。
だからこそ毎日、幸せを感じながら育児を経験していたのです。

でも張り切りすぎたのでしょう。

過労で入院することになってしまいました。
娘が8ヶ月のときのことです。

初めての子育てに自分では気づかないうちに疲労を溜め込んでしまっていたのですね。
私は入院してしまったのが、なによりもショックで病気になった自分を責めました。

体力も弱り、気持ちも滅入り、先を思い悩んでぐじぐじしました。

そんな私に、友人がお見舞いに
<ラベンダー>の精油をプレゼントしてくれたのです。
今まで、散々手に取って馴染んできた精油です。こんなん知ってるわ・・・と
せっかくの友人の好意にもネガティブな言葉を口にしながら、
一滴手に落とし、両手をこすり合わせて香りを嗅ぎました。

するとどうでしょう?今まで固くにぎりしめていたものが、力がふわんと抜けて行き、穏やかな気分になっていったのです。それまで口を開いたら、愚痴っぽくぐじぐじ言っていました。
けれど「今日はいいお天気。なんか良いこと有りそうやね」そんなことを言ういい気分になりました。

後から知ることになったのですが、
これはサトルアロマテラピー(精油の持つエネルギーを活用するアロマセラピー)の理論。
ラベンダーの波動は、過去を洗い流してくれるエネルギーを持っており
水星というものすごく流れの速い星が支配しているため、洗い流すパワー(浄化)が強く、早いんだそうです。

あの時、友人がくれたラベンダーの波動に共鳴して、わたしも浄化できたのでしょう。
私はたった一本の精油で、立ち直ることができたんです。
結婚して、自由に使えるお金もないから、落ち着いたら勉強しよう・・・
と、子育てにも忙しく、縁遠くなっていたアロマの世界でした。
友人がくれた、たった一本の精油がきっかけで、またスクールに通い始めることにしました。
その時、何も言わずにこっそりその学費を貸してくれた、実家の母には感謝しています。

今でも、アロマバスとして、お風呂に精油を入れ・・・セルフトリートメントをし、石鹸を作ったり・・・
アロマは私の生活の一部になっています。
そこからの私は、心身の不調をアロマテラピーやフラワーレメディなどの自然療法で解決してきました。
自分自身の実体験で、アロマの力を知っているので、同じような悩みを抱えている方に役立てたいと思っています。

アロマセラピーの楽しみ方やフラワーレメディについては、ブログやメルマガに書いていますので、ぜひご覧ください。

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